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Today's topic No. 031 2016/11/22 |
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☆ レッド・アレンとフランク・ウエイクフィールドのブルーグラスが、何故これほどに伝説化されるのか? |
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PATUX-258 RED ALLEN & FRANK WAKEFIELD『WDON 1963』CD(本体\2,450-) \2,646- Deep Elm Blues/Somebody Loves You Darling/You'll Always Be My Blue Eyed Darling/Pistol Packin' Mama/Will You Be Satisfied That Way/Old Joe Clark/Give Me the Flowers While I'm Living/I Guess I'll Go on Dreaming/I'm Blue and Lonesome Too/All I want Is You/Poor Ellen Smith/Alone and Forgotten/I Wonder Why You Said Goodbye/I Thought I'd Never Fall in Love Again/Sweet Sunny South/I Wonder If You Feel the Way I Do/Wayfaring Stranger/Little Rosewood Casket/Don't Laugh/Red Apple Rag/I Wouldn't Change You If I Could/Sing, Sing, Sing. 1950年代のアーリーブルーグラスを胸一杯に吸い込んだレッド・アレン(1930-1993)とフランク・ウェイクフィールド(1934-)。ケンタッキー州ハザードというアパラチアのもっとも濃い文化が澱のように溜まっているイースタンケンタッキー出身のレッドが17歳の天才少年フランクと出会ったのは1951年という。 翌年から3年間、オハイオ州デイトンのバーを本拠地に活躍、バンジョーにはノーア・クレースという伝説的ピッカーだ。 レッド・アレンとフランク・ウエイクフィールドのブルーグラスが、何故これほどに伝説化されるのか? それは1960年代、レッドはデル・マッカーリー同様に、ローカルな活動ながら、生身のハイロンサムを体現できる数少ないシンガーであったから、そしてフランクはビル・モンロー以上にモンローらしいマンドリンを弾くからなのだが、それ以上に、商業的な成功も大きな脚光を浴びることもなかったからでもあるだろう。 レッドはフランクとの3年間の活動ののち、1956年オズボーンブラザーズのMGM社でのメジャーデビューに参加、人気を得るが1958年にデイトンに戻り、ジミー・マーティンのバンドに参加したり自身のシングル盤“New Camptown Races”(1957)の発表で高い評価を受けていたフランクと再コンビを組んでいる。 しかし商業的な成功は収められず、フランクは1959年暮、あたらしい可能性を求めてフォークブームのただ中、首都ワシントンDC地区へ移住、翌1960年にはレッドも追いかけていく。そこで生まれたのがレッド・アレン、フランク・ウェイクフィールド&ケンタッキアンズ。そしてフォークウェイズの名盤『Bluegrass』(1964)だ(現在はレッド・アレン名義のCD『The Folkways Years 1963-1984』\2,646-として発表されている)。 本作はちょうどその頃、ブルーグラス アンリミテッド誌の発行者で編集長でもあるピート・カイケンダルのバンジョーと、バンジョーのコンバージョンやセットアップ、リペアーなどのパイオニア、トム・モーガンを従えてDC郊外の街、メリーランド州ウィートンのWDON局の15分番組のために、カイケンダル家の地下にあるウィンウッドスタジオで録音されたもの(カントリージェントルメンの大名盤『Folk Session Inside』も同じ1963年、ここで録音されている)。 フラット&スクラッグスで病欠のレスター・フラットのトラを務めることもあったというレッド、しかしその活躍の多くはオハイオ/ミシガン、そしてワシントンDCなど、アパラチアからの移住者が多い都会であったという。そこでレッドは、アパラチアの伝統を背負ったトラディショナルシンガーであり、同時にモンローのハイロンサムを理解した数少ないひとりだった。 その上、レスターのファンなのだから、ブルーグラスシンガーとして言うことはない。 一方のフランクは、スタンレーブラザーズやジミー・マーティン、グリーンブライアーボーイズに参加するも、あまりある才能は数々のソロ作品を生み、コードやアルペジオを基本に組み立てる数々のオリジナルは、すでに1963年のシングルでクラシック的な発想の“Rondo”という曲を発表、1970年代にはフラットピックと指の腹を利用した“Jesus Loves His Mandolin Player”というクラシックのソロマンドリンをシリーズで発表、交響楽団との共演もして21世紀の現在のブルーグラスマンドリン界の志向を先取りしている。 その天才性と先鋭性、先駆性はデビッド・グリスマンが師と仰ぐことで知られている凄いマンドリン奏者なのだ。 1962年12月にはカーネギーホールでフラット&スクラッグスがニューヨーカーを相手にコンサートを大成功させ(ブルーグラスライブの大名盤を生んだその知られざるリポートはムーンシャイナー誌2013年12月号と1月号参照)、そのときのF&S東部ツアーでのアールとの出会いがもとでビル・キースがビル・モンローのブルーグラスボーイズに都会人として1963年に参加、そのキースは翌1964年にレッドとフランクのアルバムに参加、前述のように日本(とくに関東地方)の学生に人気を博したカントリージェントルメンの大名盤もレッドとフランクの目の前で完成……、というように1963年は、ちょうどブルーグラスが都会を巻き込んで行った時代になる。 そんなホットな大都会、米国首都ワシントンD.C.で、こんなに濃い田舎のソウルを演じていたという、その強烈なギャップが今も昔もブルーグラス最大の特徴であり、その強さのバックボーンである。 ……音楽の感性なんて、みーんな想像の産物で、聴く人の自由なものなんだから、何が本物で偽物かなんて、ありゃしない。で、そんなことは百も承知で、これが「本物」のブルーグラス!……なぁーんて!? (B.O.M.Newsletter#408より) |
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